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蝉しぐれ・・・繰り返し読みたく​なる​

繰り返し繰り返し読みたくなる本がある。

そんな本は 本棚の2列目にいつもは隠れている。

50年前に買った文庫本もある。

本は 黄ばんでいたり、背表紙もなくなくなっていたりしている。

3年なのか5年なのか10年なのか 必ずまた手にとって読みたくなる物語がある。

「蝉しぐれ」



東北をめぐりをしてきた。

日光から会津、米沢を経由して 宮城県銀山温泉。

ドラマ おしん の舞台。大正時代の姿と云われる旅館街を歩いてきた。

日本海側へとって返して 北前船で有名な山形県酒田へ。

この地には日本一の地主と云われる豪商本間家が残っている。

その途中思いがけず江戸時代の庄内藩を通ることになった。

藤沢周平のふるさと。

彼の小説で度々登場する海坂藩はここ庄内藩をイメージして書かれているらしい。

立ち寄った 鶴岡城址の中に藤沢周平記念館があった。

ああ ここにあったんだーー

ざっくりの無計画な旅なので。

いきなり思ってなかったものに出くわす。

特別展示は私の好きな小説「蝉しぐれ」だった。

「蝉しぐれ」は山形新聞の夕刊小説だった。

藤沢は執筆しながら いつまでもおもしろい話の展開が書けないことにイライラし通しだったという。

読者反響も全くなかったらしい。

長編より短編が得意なことから物語の展開に苦労したのかも知れない。

ところが 書籍になると それを裏返すかのような大反響に。

蝉しぐれは テレビドラマや舞台演劇となり、

数年後には映画化された。

私の藤沢との出会い

映画化された「たそがれ清兵衛」だった。

映画に感動したので原作を読んだ。

次に、手にとったのが「蝉しぐれ」だった。

青春時代劇という言葉に惹かれた。

時代劇にはない、言葉だと思ったからだ。

あらすじ

海坂藩の下級武士に生まれた(文四郎)。

隣の家に住む 娘(ふく)に幼い恋心をもっている。

(ふく)はやがて 女中奉公のため江戸に出て藩邸で働くようになる。

あろうことかやがて 藩主の側室となっていく。

(文四郎)にとってはもう手よ届かない存在に。

江戸からもたらされる幼なじみの動静に 耐え難い心の痛み。

(ふく)はやがて 藩主の子を身ごもり 、

正室とのあいだの お世継ぎ争いに巻き込まれていく。

国許に置いた方がよいだろうと帰国した(ふく) 。

ところが国許にも(ふくと子供)を、喜ばない勢力があり、

文四郎も事件に巻き込まれていく。

腕に覚えのある文四郎、敢然と(ふく)を守ろうと剣を抜く。

事件が終息して

やがて十数年の時は流れて、藩主が亡くなる。

( ふく)も城を出て、寺に入ることとなる。

そんな時

文四郎に一通の手紙が届く。

初恋はいつも輝いている。

仏門に入る(ふく)。

俗世への最後の心のこりは(文四郎)のこと。

最後に一度だけ会いたいとーー。

藤沢周平は下級武士という窮屈な身分に生まれた主人公を、

日本人の心の機微を積み重ねて 物語書き込んでいく。

さりげない描写に私は心を惹かれている。

「蝉しぐれ」は 私の青春小説のベストである。

私の旅

いつも計画をきちんと立てて旅をすればもっと濃密な旅ができると思う。

それでは放浪や漂泊の旅にはならない。

ダメ出しする もうひとりの私。

また、ざっくり方向といくつかだけを決めて旅に出る。

突然の出会もよし

ようやく登れた乗鞍岳


登山口の山小屋から少し登った先の小さな岩場の斜面。

カメラやスマホを構えた登山者の人だかりが見えた。


肩と肩の隙間から覗き込むと

すぐ先の小さな岩の隙間を 

雷鳥の親子が歩いている。

その距離10メートル。


親子は岩の上に立ち こちらを見ている。

親子の動きにカメラの方列も動いた。

岩場の影を見え隠れしながら子鳥が

よちよち遠ざかっていく。

親鳥はそのあとをついていく。

毛の雷鳥はうずら色をしていて岩の色と同化している。

しばらくすると見えなくなった


この夏、乗鞍岳3026メートルに登った。

3000メートルを越える山に登るのははじめてだった。


朝 乗鞍高原のバスターミナルから始発のバスに乗って、

乗鞍岳の登山口、畳平までバスで登って行く。


上高地がそうであるように

自然環境を守る観点からマイカー規制で

自家用車では畳平まで登れなくなっていた。


乗鞍岳登山の起点となる畳平(バスターミナル)まで、

深い雪の除雪が終わりると

バス路線が開通する。


バスの天井をはるかに越える雪の回廊が現れる。

その回廊を登るバスの映像は

春を迎える乗鞍岳の季節の風物詩となっている。


畳平には何度かドライブで訪れる機会があった。

標高2700の畳平駐車場の風景は

旧火口が間近に迫り

山岳ホテル風のバスターミナル建物は

景色に映えている。


何度かこの地に来て山上を眺めながら

いつかは登りたいといつも思っていた。

ようやく積年の思いが実現した。


登山道は途中にある天文観測所を巻くように

3026メートルの山頂に伸びている。


2時間も歩くと

頂きと頂きを結ぶ鞍部の平坦な地形に出る。

馬の背のような形状から乗鞍岳という名前がついた。


乗鞍岳頂上からは 上高地の雪を抱いた渓谷を遠く望むことが出きる。

前穂高 奥穂高とつづく連なりの先に 

はじめて肉眼で見る・・・槍が天を刺す山影の 「槍ヶ岳」が・・・。

アルプスの奥にあってなかなか見ることができない。


反対方向に顔を向けると山の連なりの

奥のもっと奥に富士山の輪郭が小さく見えた。


  下山して 山小屋で休息をとった。

    

  

 小屋から四角窓を通して見る山と緑。 

    おでんとビール。格別の味だった。

 

  少し辛い思いをして登るから山の景色は素晴らしい とーーー。  

  ひと息つきながらいつも思う。

  

  たぶん人生もーー。





山間の湯

久しぶりにゆったりと温泉に浸かっている。


ここは乗鞍高原温泉。

少し山あいに入ったところには

「白骨温泉」がある。


さほど広くはないが板塀に囲まれた湯室は

情緒がある。


床板は微かなスロープ

湯船から溢れた白濁の湯が足元を流れていく。


粗削りの囲い板の湯船

野趣な装いをしている。


白濁で底の見えない湯船に足を沈めていと、

丸太のような凹凸を足底に感じる。


そっと体を沈める。

底に溜まっていた湯の花が沸き上がって

湯船を濃い白に染める。


ランプ色のほのかな灯り。


しばらくすると白濁は沈んで

霧のような半透明の湯に戻っていく。


手のひらに湯を捉えて顔にかぶる。

思わずため息が漏れる。


贅沢な山の湯の時間が流れていく。

澪つくし 銚子を訪ねて

「澪つくし」は千葉県銚子を舞台にしている。

若い頃、千葉県銚子市に会社の得意先があったので

営業でよく訪れていた。

けれど銚子で知っていることと言えば犬吠埼の灯台くらいで、

刺身が美味しい店だとか、

地元の人たちが通う店だとか、そんな事ばかりだった。

全国一番の水揚げを誇る銚子の漁業のことも、

市内に建ち並ぶ醤油醸造のことも

情けないほどに知らない。

若すぎた私、当時はなんの興味ももたず時は過ぎてしまった。

この歳になってしばらく振りに! 銚子を知る旅!に出掛けた。

銚子漁業のはじまりの地 外川(とがわ)

私鉄 銚子電鉄は銚子市内から犬吠埼灯台を経由して終点が外川駅。

総距離6キロあまり。

駅は昔風のこじんまりした木造の駅舎だった。

駅前にはNHK連続テレビ小説「澪つくし」の看板が立っている。

もう40年も前にもなる昭和60年に放送されたドラマの看板。

この街が舞台となっていたと書かれている。

駅は小さな岬の高台にある。

ここから放射状に急傾斜の石畳の坂が何本か港に向かって降りていく。

急傾斜の縦道と平坦な横路が碁盤の目のようにして外川の街を型づくっている。

駅から少し港へ下ったところに私営の歴史資料館があった。

ドアを開けると、元気なおばぁちゃんが裏から出て来た。

このおばあちゃんの熱い話

私が質問ひとつするとその度に

古い資料や当時の写真の展示してある場所に手を引くように導かれた。

資料をめくりながら、外川の歴史銚子の歴史や風俗を熱く教えてくれた。

銚子遊郭の話もーーー遊郭は当時の一大産業。

周辺には着物や手加工業、料亭等が並び

地域の収入源となっていた。

昭和初期から今日に至の変遷の歴史

おばあちゃんの生きた時代そのもの。

語る言葉は自然と熱を帯びてくる。


いくつかの話を切る抜くと

外川港、紀州和歌山の人々の移住からはじまった。

銚子沖は寒流と暖流がぶつかり合うところ。

多種の魚が回遊している。


江戸初期 紀州和歌山の漁船が寒流に流され銚子沖で遭難した。

銚子外川の人たちに助けられた。この紀州人はこの地で療養した。

そしてこの場所が漁業に適した地になると感じた。


田んぼや畑作にも向かない岩盤に覆われた外川は

当時なんにも役にたたない土地だった。

この一帯は群馬高崎藩の飛び地だったらしい、

藩はこの紀州人に漁港開港の許可を与えた。


これが銚子漁業のはじまりである。

すると紀州で漁業を営んでいた多くの漁民が この地に移住してきた。

やがて全国一となる銚子漁業のはじまりだった。


イワシ漁が盛んであったという。イワシは食用のみならず 肥料等に加工された。



醤油業のはじまり 

しばらくすると 同じ紀州から醤油醸造を営む人たちが

今の銚子市街に移り住むようになる。


江戸の水害を減らすために

幕府は江戸の城下に流れ込んでいた利根川の本流を

山を掘削して銚子港に流した。


これは海運が銚子と江戸の街を繋がったことを意味する。


江戸の人口の増大に比するように銚子の街も大きくなった。

特に醤油。ヒゲタ醤油、ヤマサ醤油ーーーが生まれた。


語り部の資料館のおばあちゃん、年齢を聞くと85歳だという。

おばあちゃんが嫁いだ この家は裕福な網元だったらしい。

それが ある法律によって変わっていくこともーーー。


銚子網元の衰退と漁業労働者の所得アップ


昭和38年の労働法改正は網元のおばあちゃんの家にとってはたいへんな出来事だった。

それまで使用人は賄いだけで仕事をさせるのがあたりまえだったという。

儲けの多くは網元の財産となっていた。


この法律によって労働者の権利が保障された。

食べさせればいい時代から労働者の家族の生活を守る労働条件が確立したのだ。

違反すると罰則が伴う法律だった。


網元が独占していた儲けの多くを従業員の生活や給料に回さなければならなくなったー。



話はつきない。

まだ先の予定もある。 おばあちゃんとの会話を切り上げて外川の漁村を歩いた。

外川は岩の上につくられた街、石畳の道だ。賑やかだった時代を想像しながら人通りもない坂を歩いた。



醤油の街、銚子市内へ移動した。

資料館でおばあちゃんから聞いた街へ行ってみた。

街の中心には古い街並みはどこにも残っていなかった。

どうしてだろう。


ネットで調べるとみると!銚子空襲の文字!がーーー。


街の多くは空襲で焼き払われていた。

東京のどこにでもある街の商店街と住宅が建ち並ぶだけだった。


少し歩くとヤマサ醤油の倉庫が建ち並ぶ一帯があった。

かっては鉄道が引き込まれていたのだろう。

道路と線路が交錯している。

大きな倉庫の建ち並ぶ景色は やはり醤油の街だと実感する。



私の子供の頃は すべての料理に醤油をかけて食べていた。

納豆などは醤油に豆が浮くほどかけて食べていた。

←納豆ひとつでご飯をいっぱい食べるためいだったかもしれない、

納豆よりも醤油の味がした。


今は 食の洋風化もあって、醤油の出番は私の家でも減っている。


一方で和食が世界で認知され、醤油の輸出は伸びているという。

隠し味として洋食の基礎調味料の一角を担うのもそう遠くの話ではないと私は思っている。



ドラマ 澪つくしーー

物語は大正、昭和の銚子の歴史が見事に組み込まれていてる。

脚本はジェームス三木

ヒロインは沢口靖子だった。


彼女は「相棒」と並ぶ定番のヒット作 「科捜研の女」で主演を演じている。

なんか素人くさい演技とゆっくりした台詞。

共演の加賀まり子の特訓を受けたという。

しかし、その足りないところが彼女の魅力になっていて 

今の地位を築いているのだと思う。


「澪つくし」は銚子の「醤油業」を営むヒロイン沢口靖子と

外川港の「漁師で網元」の川野太郎の"結ばれぬ恋"から物語がはじまる。


醤油業と漁業

数年かけてじっくりと手間をかけて醸造する醤油。

海に乗り出して舟板一枚に守られた命。豊漁も不漁も魚の回遊次第という 当時の漁業。

働く人たちの性格も生業(なりわい)も正反対の二つの産業。

水と油の関係。

醤油の老舗の娘と漁師の網元の長男。

二人の恋はせいじゅうするのだろうかーーー?


40年遅れて今、ドラマにはまっている。

ドラマの結末をドキドキしながら追っかけている。


資料館で聞いた 銚子の歴史が見事に脚色されている。

物語も終わり近くになっている。


第二次世界対戦の徴兵、

戦争末期の銚子空襲。

街が醤油工場が燃えていく。

多くの登場人物たちの命と運がここで分かれていく。


混乱と新しい時代の幕開け。


そしてハッピーエンドの予感を残して物語は終わる。



歴史を知りたいということは


齢(とし)を重ねると、なぜか歴史や文化をより深く知りたくなる。

人も年輪を重ねて その人となりがつくられていく。

すべての事柄に歴史がある。


国の歴史だけではない。

産業や企業の歴史もあれば 街の歴史、

人生も歴史である。

そんなたくさんの歴史が幾重にも重なりあった社会の中で私たちは生きている。


私を知ることは

今 生きている社会を知ること、

社会は さまざまな歴史や文化が折り重なって今も変化し続けている。


私の旅は歴史を知る旅・・・百聞は一見にしかず。



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幸せな国 水木しげる

Posted on October 22, 2020 at 10:15 PM Comments comments (14144)
ゲゲゲの鬼太郎の主題歌。
施設で唄っても多くの高齢者が一緒に口ずさむことができる歌。
昭和だけではなく平成の定番ソングにもなっている。

テレビ放送は
約50年前の1968年からはじまった。
以来 最近まで新作も多くつくられ、旧作の再放送を含めて繰り返し繰り返し放送されてきた。

老若男女、時代を越えて、皆で唄える数少ないアニメーション主題歌になっている。

ゲッゲッ ゲゲゲのゲー
朝は寝床で グーグーグー
たのしいな たのしいな
おばけにゃ学校も
しけんもなんにもない

ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲー
夜は墓場で 運動会
たのしいな たのしいな
おばけは 死なない
病気も なんにもない

作詞は 水木しげる
作曲はなんと いずみたく。
昭和ポップスのヒットメーカー。
私のいちばん好きな作曲家である。古賀政男 服部良一 吉田正 遠藤実 についで国民栄誉賞をあげたかった作曲家。
昭和ポピュラーソングの巨匠と言っていい。

どれ程彼の作曲した曲を繰り返しギターで唄っただろう。そんな彼が この曲をつくっていた。

"幸せな国"の人たち
ゲゲゲの鬼太郎の原作者 水木しげる。

戦時中 彼は陸軍に徴用されると南方の島の守備隊に配属になる。
彼はこんな体験もしている。
ジャングルの中、ある晩 小隊から少し離れた場所で夜の見張り番をしていると 敵軍が攻めてきた。
あまりの攻撃の激しさで小隊が全滅する。
離れた場所から小隊を見守っていた彼だけが運良く生き延びた。
ひとりジャングル深く逃げ込んで生き残る。

ある時は、空襲の負傷が原因で片腕を切断することになる。
この時、後方のジャングルの中の野戦病院に送られることになった。ここで貴重な体験をする。
病院の周辺に住む現地人との交流が生まれたのだ。
のんびり屋の彼は 波長ごあったのか現地人に歓迎された。
怪我の療養をかねながらのんびりと
現地人と交流しながら過ごすことになる。

現地人の生活はほんとんど働かないでいい。
常夏のジャングル。最低限の衣食住は充分足りていた。
自生する食糧はいつでも豊富に実っている。
だから食べる分だけ収穫すると あとはのんびり過ごすのが彼らかの生活だったという。
時間はゆったりと流れていく。規律責めの軍隊とどれ程違っていたのだろう。日本での生活とどれだけ違っていただろうか?
のんびり暮らす彼らの生活にあこがれた。
軍を脱走して ここで住みたいとまで思っていたという。

幸せって何だろう。
衣食住が足りて、過度な労働もせずに のんびりと暮らす。
日本は一説では世界で最も幸せな国と言われている。
次から次へと欲しいものがつくられ、
それを手に入れようと努力する日本人。
世界を見回し いつも競争の中で幸せを享受しているように見える。

欲望をつくらない世の中。
水木しげるがあこがれた世界は
時間が止まったままで今でもあるのだろうか?

曼殊沙華・・彼岸花

Posted on October 8, 2020 at 7:43 PM Comments comments (2099)
ジョギングは小さな旅
通りすがり神社の境内に
真っ赤な花が咲いていているのを見つけた。

門前で踵をかえ返す。

それは大きな木の下で幾りんかの花をつけた曼珠沙華(彼岸花)だった。

お墓の花。縁起が悪い。日陰の花。などと揶揄されるけれど最近は季節の花として、見る機会が増えたように思う。

乃木将軍の碑
曼珠沙華の脇に大きな板碑が建っていた。

案内板には
「日露戦争 戦勝記念碑。GHQの命令で 碑を壊するように命令されていた。
町民の気持ちとしては碑を残したい。
そこで予算がないと のらりくらり撤去を延期しているうちに7年間の占領が終わった。
今では貴重となった碑を残すことができた」。
と言うようなことが書いてあった。

大東亜戦争でアメリカと四つに組んで敗戦した日本。
アメリカとって強く危険な国だった。

その道徳、規律、協調集団力。
西欧諸国にはない日本の独特な国民性をいちばん怖れた。
どうやったら日本人の力をそぐことができるか?

アメリカGHQは力を削ぐさまざまな政策を実行していった。

乃木大将の碑、特に軍人を尊崇する碑は最初に破壊の指定対象となっていた。

今では最も近しい関係となっている日本とアメリカ。
終戦から75年。
こんな時代もあった。

幸手権現堂
昨年 曼珠沙華の季節に来たけれど、
そのピークを過ぎていた。

神社の曼珠沙華をみて再度出かけた。 
ここは関東で有数の桜の名所なのだけれど、 
曼珠沙華も素晴らしい。
土手いっぱいに真っ赤な色が咲き乱れている。

ここまで大群で赤く染まると
縁起の悪い花ではなくなっている。

日が照らすと一層鮮やかに輝いて見えた。

スカイツリーの街 昔。

Posted on September 20, 2020 at 8:05 PM Comments comments (10070)
夕暮れ時
スカイツリー周辺を歩く。

陽が暮れて路地裏から灯りがこぼれる。
黄色い街灯り。

私は いつものように
路地裏に向かって歩く。
狭い路地に流れ扉の玄関。
漏れ聞こえる家族の会話。
磨りガラスにテレビが映る。
カレーの香り。
素朴な生活 家族の団欒。

町中に錆びたトタンの看板が
いくつも残ってた。
狭い道がいくつも交錯してた。

表通り出る。
古びたアーケード
居酒屋の赤い提灯
ラーメン屋
靴屋、洋服店、カバン屋、雑貨屋。
ーーーー。

その場所に今
スカイツリーがたつ。
この辺りは
こんな下町だった。

首が痛くなるほどの角度で
スカイツリーを見上げながら。

ふと あの頃の懐かしい
風景を思った。

30年ぶりの川中島

Posted on September 20, 2020 at 4:16 AM Comments comments (1759)

久しぶりに長野 川中島へやって来た。
30年振りだ。
長らく登りたいと思っていた「妻女山」に登った。
それどこ?
武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦。
上杉謙信が本陣を構えていた山が「妻女山」。
川中島は二つの川に囲まれた広大な砂州となっている。
この川中島を見下ろすように突き出した山が「妻女山」。
上杉謙信は武田信玄の領地である川中島に進出すると
妻女山に登って距離をとって武田軍とにらみ合うことになる。
キツツキ戦法
上杉、武田両軍の膠着状態が長く続いた。
しびれを切らした武田信玄が動く。

軍を二つに分け一隊に妻女山の後方から夜襲をかけさせ、
追われて川中島に降りてきたところで信玄本隊とで
挟み撃ちにしようとする作戦。

ところが前日の煙の上り具合から
武田軍の動きを察知した上杉謙信は 
いち早く川中島に降りる。

早朝 厚く垂れ込めた朝霧が晴れると、
上杉本隊と武田本隊(信玄)はあまりにも近づいていた。
いきなり総力戦となる。

武田 上杉の本陣が間近に拮抗する凄まじい戦闘。
半分を夜襲隊に割いている信玄本隊は窮地に。

兵数に劣る信玄は徐々に陣を崩されていく。
万事休すという時に前夜から迂回して、
妻女山へ向かったの武田夜襲隊が謙信の後方に現れた。

上杉軍にとっては逆王手の挟み撃ちとなった。
謙信はこれまでと判断し
一騎果敢に武田本陣に討ち入り
信玄に太刀を浴びせると
兵をまとめ上杉領へと退却していく。
両軍でおびただしい戦死者を出した
有名な合戦である。

川中島の合戦を描いて 映画「天と地と」
1990年 平成2年公開の映画 。
角川映画絶頂期の映画の一つ。

30年前 この映画の封切り公開を川中島にほど近い長野市の映画館に私はわざわざ見に来ていた。
この映画を見て興奮の冷めやらぬうちに 合戦の地 川中島を訪れるという計画。

30年ぶりの川中島。この日 ゆっくりと川中島の合戦地の多くの史跡を訪ねた。頭に長らく描いていた川中島のイメージが何か繋がったように思えた。

国難に殉じた慰霊碑
妻女山の上杉謙信の本陣あとには
川中島の戦いとは別の
真新しい慰霊碑が立っていた。
この周辺の地域で 国に殉じて亡くなった人たちの慰霊碑。
(令和元年に建立)。

徳川幕府と官軍の戦争、戊辰戦争(1868年)から
大東亜戦争(1945年)まで、亡くなられた方の名前が町村毎に刻まれていた。
戊辰戦争。西南戦争。日清戦争。日露戦争。シベリア出兵。シベリア蒙古抑留。満州事変。満州居留民。満州開拓青年義勇隊。満州居留警備隊。満州開拓殉難者。日中戦争。大東亜戦争。

歴史の多くは戦争の歴史だ。戦争の合間に文化、経済が繁栄する。
また、戦争でリセットされ、その繰り返しで人類は繁栄してきた。
戦後75年大東亜戦争以来 大きな戦争は起きていない。
核兵器の抑止力もあって、大国間の戦争は起きてはいない。

しかし、昨年からはじまった
民主国家の代表アメリカと
独裁国家の代表 中国の経済戦争。
この結末はどうなるのだろうか?
平和ボケ国家に住む私。

ボケているのは私だけだろうか?

妻女山の展望台の上に立って、ふと考えた。

試験に遅刻・・夢

Posted on September 18, 2020 at 12:17 AM Comments comments (1654)

最後の講習と試験が その日あった。
朝 忙しく起きて、服を着る。

何を着ても何か決まらない。
ズボンが合っていないんだと タンスを開けた。

家にいる間にもう試験開始の時間がはじまってしまった。

どうしよう どう言い訳しよう。
考えながら家を飛び出す。

この試験を通らないと資格が取れない。
何の資格なのかわからない。

ようやく学校に着く。
馴染みの校舎だったのに
校舎の中は大改装されていて迷路のようになっている。

試験会場の教室へ向かう一本続きの廊下が見当たらない。

仕方なく細く急な螺旋階段 を登ると そこは学生食堂だった。

ふと小便を我慢していたことに気づく。
トイレ トイレ。
試験の終わりの時間が近づいているのに。
トイレの標識を追いかける。
トイレを見つけた。
ところが標識はあるのにトイレはない。
学生が食事をしているばかりだ。
諦めて小便を我慢することにする。
もう試験も終わる時間。

家にいるときから、この遅刻をどう先生に言い訳しようかといくつもの物語を考えていた。
いい回答がなかなか見つからない。

校舎の迷路に居ては駄目だと校庭に出る。
校庭から回り込むとように校舎を回ると
試験会場の三階の窓が見えた。

窓から私を見つけた同級生がみんな早く来いと手招きしている。
最寄りの入り口から入って階段を走って昇る途中。
終了のチャイムが鳴った。
たくさんの人が階段から降りて私と交錯する。
同級生達の姿は見えない。

教室にたどり着くと空っぽ。
誰も居ない。

そこで夢から覚めた。

夢をあまり見なくなった。
これも老化かなと思ったりもする。

時々見る夢は
留年や落第 試験の夢?
何かやり残し、消化不良。

新総理大臣

Posted on September 17, 2020 at 11:26 PM Comments comments (1895)

私の小学生時代、総理大臣とは佐藤総理だった。
(昭和39年から昭和47年までの8年間)
同姓の総理大臣。

その前となると池田勇人(昭和35年から昭和39年)。
私の中で もはや遠い白黒写真の時代となってしまう。

菅内閣総理大臣が就任した。
今までの総理候補に圧倒的な差をつけての完勝だった。
思わぬダークホース。
全く予想なし、いきなり最高権力者に登り詰めてしまった。

内閣官房長官として長きに渡って安倍政権を支えてきた手腕。
政党内で評価された。

農家からサラリーマン。
市議会議員から衆議院議員。

たたき上げで コロナ大不況下の日本の舵取りを任された。

私の期待していた100年に一度の経済不況。
彼はどんな舵取りをするのだろうか?

ダークホースとは
本来は能力のよく分からない馬という意味らしい。

彼は安倍政権を支えた8年間。
内閣官房長官という内閣の立場でその実力を発揮した。
少なくともと有事には混乱の時代には
血筋のよい政治家、サラブレッドでは難しいと
自民党内の政治家は判断したのだろう。

菅新総理は
政権の方向に邪魔をする官僚は
容赦なく人事異動権を使うと宣言した。

既存組織に胡座していた既得権者には怖い内閣が生まれた。
草莽崛起・・・吉田松陰の言葉。

とにかく期待するしかない
これから来る ほんとうのコロナ大不況を
できるだけ短期間で脱するために


子供のお金の使い方

Posted on September 17, 2020 at 5:23 AM Comments comments (2226)

上野で食事をしていた。
隣の席に若いお母さんが二人、話に興じている。

これから子どもたちを科学博物館に連れていくらしい。

三人の子どもたちはその脇で
子どもらしさを発揮して騒いでいる。
ちょっとうるさいくらい。
まわりの客も迷惑そうだ。

そんなの知らない風に
母ふたりは話に没頭している。
少し翔んでそうなお母さん(ママ)だった。

私は唇に人差し指立てて、騒ぐ子どもたちを見つめると。
「キョトン」としたあと
暫くの間は静かになっている。

話が尽きたのか、ようやく母親達が立ち上がる。
ひとりの子どもがゲームセンターに行きたいと言い出した。

科学博物館に連れていきたい行きたい母親ふたり と
ゲームセンターへ行きたい子供たちとの会話

子供たち
科学博物館よりゲームセンターがいい
ママ
ゲームセンターは 何もあとに残らない。
そういうお金の使い方は自分が稼ぐようになってから。

子供たち
「じやぁ」  貯金しているお金は僕のお金だから
ゲームに使ってもいいの
お年玉がたくさん貯まってるから

ママ
お年玉は自分で稼いだお金ではないでしょ
だからそれは大切に使うお金なの

子供たち
お手伝いをしてもらったお金は?

ママ
それは働いてもらったお金だから自由にしなさい。

今は何かためになること!
何か残ることに使うこと!

今日は科学博物館。
きっとあなちちの役に立つから。

だから自分で給料がもらえるようになったらゲームに自由に使いなさい!

私は思わず会話をメモしてしまった。

上野科学博物館は私も子供の頃
なんどか連れてもらった。
恐竜から、はじまって
猿から人間へ、そして動物たち。
最初の博物館見学には最適なところだと思う。

やっぱり大不況がやってくる。

Posted on August 23, 2020 at 4:58 AM Comments comments (2291)

音楽活動をはじめた頃、

まだ大正生まれの高齢者の方がたくさん施設にいらっしゃった。

その頃、語り部は

皆さんが生まれた頃
①関東大震災(大正11年)が起こった。
と 話をしていた。



続いてアメリカのバブル崩壊に起因して
②世界大恐慌(昭和4~)が勃発。
日本も大不況に見舞われた。

アメリカでは当初3年間でGDPが27%縮小したという。

日本は大不況を脱するために海外に覇権・・・・これが
③満州国建国となる。

日本とアメリカのアジアへの覇権争いの結果・・・
④大東亜戦争がはじまった。

⑤日本は敗戦したけれど、皆さんの努力で
世界の第二位の経済大国となり。
世界有数の幸せな国となった

こんな話をしていたことを思い出した。


大不況がやってくる。
先般 4-6月期のGDPの速報値が(GDP成長率)ニュースになった。

前年比で年換算すると27.8%のダウン(約30%ダウンと考える)が見込まれるという。

←先進諸国の中で日本は健闘している。イギリスは約60%のダウン。

GDPは労働者の賃金の源資である。
1時間あたり・・・GDPの28%が賃金だと言われている。

少し乱暴だけれど30%の賃金ダウンと捉えると

月30万の賃金が21万円に下がる。
年収500万円なら 年収350万円になるということ。
150万円の減。

多くの企業は社員給料の減額より。
すなわちリストラに動くだろう。
失業者が増えていく。

会社都合の失業保険
賃金の5~6割の額で6~7ヶ月支給される。

失業保険の給付が切れた時
不況は拡大していて就職先がない。
これが大不況の姿。
景気回復まで仕事につけない状況が長くつづくことになる。
失業率が高くなる。

大東亜戦争。その戦後10年間と同じように
・・・身近な人間関係の助け合いが必要となる。

不況対策 第一の矢 第二の矢
それでも日本の政治はコロナ対策をしながら一方で壊滅的な打撃を受けている①旅行業や②外食部門に補助金を出して支えようとしている。

これから矢継ぎ早の対策が必要である。
まさに政治が前面に出なければならない。

日本の政治力がほんとうに試される。
ここでやれなければならない。

コロナより怖い大不況を防ぐために!

大手のマスメディアは コロナ、コロナと感染者の人数を念仏のように
嘆いているだけ。
政府の経済対策を非難するだけ。

年間GDP27.8%減でどのような世の中になるか?
誰も直視して語ろうとしない。

死のリスクはコロナ感染より
これから来る大不況の方が
はるかに怖い。

歴史を学ぶということは、
将来を予測できる力をつけること。

容易ならぬ不況を乗り越えるために
何をすべきなのだろうか?




義父と2.26事件

Posted on August 13, 2020 at 5:53 AM Comments comments (8140)

職人の義父
もう92歳になる義父は荻窪で戸建て住宅に携わる職人をしていた。

妻の話では若い頃は仕事三昧
家族旅行や どこかに連れていってもらったという記憶がないという。
家族で出かけるのは 盆暮れの義母の田舎帰りくらいだった。

独身の職人を何人も住まわせていた。
この頃は休みも少なく働きづめだったという。

妻はサラリーマンの週1回の休みのある家庭に憧れをもっていたらしい。

昭和30年からはじまる就職列車
それもそのはず。
確かに私達が育つた時代は
高度経済成長の只中だった。

地方から上京した人たちは少し金銭的に豊かになると
皆 競って家を買った。

家 すなわち一国一城の主。

家を持ってはじめて東京人のはしくれになれた。
田舎にも錦を飾れる
ーそんな気持ちになれた。

義父もまさに高度経済成長のど真ん中で家を造っていた。

義父との昔話
妻の実家に行くと義父とよく昔話をしていた。
子供の頃の遊びの話や仕事の話。

そして、話も佳境になると決まって鮮烈な義父の記憶。
2.26事件の話題になった。

渡辺教育総監(陸軍大将)。
昭和11年2月26日発生した。
大規模な陸軍下士官を中心とする反乱事件が起きた。
2.26事件。

義父はその日の早朝 自宅前の商店街を騒がしく走る
反乱軍のざわめきを聞いていたという。

朝が明けると 渡辺教育総監が殺害されたという話が伝わってきて愕然。
義父の家からそう遠くないところに渡辺教育総監の家があった。

陸軍大臣、参謀総長、と並ぶ3権といわれた教育総監。
なぜ陸軍の最高幹部が同じ陸軍の若手将校に襲われたのか?
戦争への道筋を決定づけた事件となった。

なぜ渡辺教育総監は殺害されたのか、

私にとって、義父の話は当時の世情を学ぶきっかけとなった。 

渡辺教育総監は、若い頃、ドイツに駐在していて
泥沼の第一次大戦で疲弊した欧州各国の現実をつぶさに見ていた。

「非戦」思想を持つようになったという。

そして、その目的を達するために日本は軍事力を整備しなくてはいけないと考えた。

戦争は悲惨なもので絶対に避けなければならない。

戦争を避けて平和に済ますことが出来ればこれに越したことはない。
しかし、利害を異にする国家間の紛争は年々大きくなっている。

国家間の調整は難しい。

国際連盟、軍縮会議の状況を見ても明らかで
方針をまとめることさえできていない。

だから日本は万一に戦争を仕掛けられても
絶対に負けないだけの強い軍事力を備えることが重要。

この軍事力を持てば、恐らく戦争には巻き込まれることはない。

中国をめぐるアメリカと日本の覇権争いの中で
マスコミや若手の将校達の中に戦争を望む声が大きくなっていく。

戦わないための軍事力ではなく
戦うための軍事力。
大きく流れを変えた事件が2.26事件だった。

現在の世界情勢は変化している。

コロナの影響でボランティア活動も ようやく一ヶ所で復活したばかり。

8月の話題はいつも原爆、日航機墜落事件、玉音放送。

もう10年以上もこの話をしている。

私なりに、少しづつ歴史に対する理解も深まっていると思う。

歴史は繰り返すという。
繰り返さないため?
ふと考える。



革命児

Posted on July 31, 2020 at 8:02 PM Comments comments (2507)
100年に一度の試練。
コロナウイルス。
平時の取り組みでは、この危機は乗り越えられない。
時代の混乱期には大胆な施策を実行できる
革命児が---。

太平の世の中では その能力を
発揮できない異端児。
予測のつかない時代に現れる。

戦国時代、将軍の権威が失墜し、
群雄割拠の戦乱の時代が続いた。
それまでの中世につくられた
権威や常識を打ち壊し
出現したのは緒田信長だった。

幕末の風雲の中、長州にあって
幕府軍に包囲された中で
電光石火の如く現れた高杉晋作。
明治維新に至る導火線に火をつけた。

私の好きな戦乱期の英雄ふたり。

コロナウィルスによる世界的な大不況が
今まさに起きている。
そして、数年は続く。

平時の政治の延長戦では
この歴史的な事件を早期に脱することはできない。

これからたくさんの経済的な困窮者が発生する。

常識にとらわれない歴史的な判断と
実行力が必要である。

革命児は生まれるのだろうか。

歴史を知るということは
先人達の知恵を学ぶということ。


今まさに、この時にそれを
生かさなければならない。

この危機に何をすべきか・・・・




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