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映画宇宙戦争とコロナウィルス

Posted on March 31, 2020 at 9:20 PM Comments comments (396)
          
「宇宙戦争」とコロナウィルス
古典的なSF映画に1953年「宇宙戦争」がある。
2005 年には トム・クルーズ主演でリメイクされた。

宇宙人 (火星人)が地球に侵略にくるという物語。
圧倒的な軍事力の前で地球人は各国で敗北し人類滅亡の窮地に陥る。
このままでは万事休すというところで 突然に宇宙人達は自ら死滅していく。

何故 何故 何故ーー期待していたラストはほんとうに呆気ない幕切れだった。

侵略してきた宇宙人は地球上に存在するウィルスに対する抗体がまったく無かった。

地球に来襲して数週間、体内で地球のウィルスとの戦いに敗れて死んでいく。

ーーそして地球人は侵略者に勝利したというストーリーだった。

過去のウイルス大流行
過去に世界的に流行した感染症の中にコレラやペストがあった。
感染した国の人口の1/3が死亡したという。

まだ交通手段が徒歩や馬等の時代、
感染はゆっくりとじわりじわりと世界中に拡がった。

特に近代文明が勃興しつつあり、
都市部に人口が増えていた西欧諸国で猛威をふるった。

江戸時代の日本にも江戸や大阪で大流行した記録がある。

近代医学はまだ生まれていない。
効果の高い薬も 抗生物質もなく
まだ充分な栄養も行き渡らない時代だった。

人類の人口を顕著に減らすほどの大事件だった。

近代医学・・・コッホ、北里柴三郎・・・菌、ウイルスとの戦い
コッホが炭疽菌 ペスト菌 コレラ菌を発見する。
フレミングがペニシリンを発見する。
北里柴三郎が破傷風菌を発見する。

ウィルスは細菌よりもはるかに小さく、
当時の顕微鏡では発見できない。

自ら 細胞をもたず他の生き物の細胞に寄生して生きるウィルス。
近年になってようやく発見されるようになる。

今・・・コロナウィルスとの戦いがはじまった
100人の感染者がいると80人は入院が必要のない軽症らしい。
20人は入院が必要なほどのダメージがある。
入院患者20人の内の5人は他の病気があったり高齢等により重症化する。
そして 日本では1~2名は亡くなっている。

致死率2% 65歳以上の高齢者が多くを占めている。

①コロナウイルスの症状を軽減できる薬は?
②抗体がつくられ予防接種はいつ?

毎年 流行するインフルエンザは コロナウイルスに負けて 
感染者が5分の1になっているらしい。

従来のインフルエンザは20万人が羅患し
1万人が死亡しているらしい。
致死率5%

この数字をどう見る?

感染が減少に転ずるには みんなが感染する必要があるらしい。
国民の70%から80%の人がコロナウィルスに感染するまで患者数が減少しないという。

ということは できるだけゆっくりとみんなが感染するしかないということだ。

戦後はじめての未曾有の危機がそこにある。
国民の70%が感染すると仮定すると
人口を1億2千万人・・・8400万人の感染。
致死率2%とすると 168万人が亡くなるという計算になる。


世界は第二次世界大戦での日本人の死者は380万人。戦後最大の危機に直面している。

まずは薬の開発が急がれる。
それまで感染しないように自衛すること。





ずっと見たかった・・わに塚の桜

Posted on March 29, 2020 at 7:43 AM Comments comments (472)
今年の靖国神社の標本木の桜は3月14日開花 ー 24日に満開だった。
桜が大好きな私は、このニュースを聴いて、居ても立ってもいられない。

例年どおり電車に飛び乗って、上野公園に出掛けた。

上野公園はコロナウィルスでどんなものか?と思って出掛けたたけれど、そこそこの人出だった。

" シートを敷いての大人数の宴会の自粛 "と書かれた看板の脇で少人数で腰をおろして花見酒を楽しむ人も多かった。
上野の桜は八分咲きといっところだった。
満開になると空をおおうほどに咲き乱れる花はまだ寂しげだった。


帰り道、アメや横丁を歩いた。
サラリーマン時代に、よく通った立呑屋は空いていた。


コロナウィルス・・・この問題で、これから日本に何が起きるのだろうか?
歴史には その時代の人には わからないことがある。

あとになって、振り返ってはじめてわかることがある。

平時とさほど変わらぬ街の風景を見て
漠然と近い将来に不安を感じている。

3月28日。
車を走らせて山梨 北斗市にやってきた。「わに塚の桜」。丘陵にただ1本、凛々しい姿で花をつけている。まだ五分咲ながら一見の価値があった。

家族の時を刻んだ家・・父の・・・

Posted on February 28, 2020 at 6:36 AM Comments comments (51)

家族の時を刻んだ家・・・。

私の実家も築55年を過ぎた。
私が小学校1年生の時、引っ越してきた。
5人家族の様々な思い出はこの家に集約されている。

この家に今は父親がひとりで住んでいる。

母に先立たれて、ひとり暮らしになって、もう4年が過ぎた。

90歳を越えて 日々老いが進んでいく父の姿をずっと見ている。

なんとかできていた排泄も失敗することにが多くなり1年前からはリハパンを使用するようになった。
まだまだ歩けるのでトイレも使えている。



家に最後まで過ごしたいという 父親の意思を尊重して
ヘルパーさんに日々介護されながらも在宅でやってきた。
けれど 最近は 体力の低下が進んでいる。

ベッドから起き上がれないことも度々起こる。
そんな時はいつも以上に老いた姿をみせる。

在宅では無理かなと思ったりすることもあるけれど、

何日か様子をみると また体力が回復する。
また、在宅でやっていけるかな?と、ほっとする。

在宅と施設
在宅介護と常時見てもらえる施設介護。

どちらが本人にとって幸せなのか
迷うことが多くなってきた。

弟妹はもういいだろうと施設をすすめてくる。

安心して居られる我が家。
私の中ではまだ納得でいていない。

誰も居ない2階の部屋
両親が老いて、階段が昇れなくなって、
2階の部屋を使わなくなって、
どれくらい経つだろう。

75歳を越えた頃から2階は空き家同然。
いつの間にか物置小屋になった。

物持ちだった母の衣類や布団 カバンの類。
使われなくなった古い家電。
鍋や食器。健康器具。

家族5人分の生活用品が山積みになっている。

そこに住んだ家族の品々が雑然と積みあがっていく。
もう使われることもないだろう。

介護ベッドひとつだけあればよい。そんな生活に・・・・。

父という天敵・・・・ネズミ退治
実家は昔からネズミとはっつき合いがあった。
子供の頃からネズミ取りの籠が置いてあった。

ねずみにとって、父いう天敵が活動を休止してから
 我がもの顔で天井裏を走る足音が聞こえたりする。

父に代わって私がんずみとの戦闘を開始した。

ネズミの嫌いな音波攻撃。毒攻撃。スプレー攻撃。

私の戦いははじまったばかりだ。

ヘルパーさんが見たという 「子猫のようなネズミ」 を退治したいと思っている。

2階は幽霊屋敷
襖の表地 は 歳月で接着機能が失われ自然と剥がれることを知った。

時を同じくして、2箇所の天袋でそれは起こった。
ビローンと一部が繋がったままで垂れ下がった襖の表地。

裏側の格子に組まれた骨組が
むき出しになって見えている。
剥がすと 固形化したのりと
襖の繊維がバラバラと畳にこぼれ落ちる。

誰も使わなくなって20年あまり。
時代劇で見た幽霊屋敷のように
風化がすすんでいる。

大阪の地震で通学路の塀が倒れて、
通学途中の児童が
倒れた塀の下敷きになって亡くなったというニュース。

他人事だと思っていたら
区役所から、お宅(実家)の塀が倒れそうで心配だと連絡がきた。

確かに何箇所か塀に亀裂が入っている。  
・・・・・検討した結果、結局、軽自動車1台分の費用を払って補修した。

千葉に大きな被害をもたらした台風があった。
風で飛ばされた屋根や
ゴルフ練習場の鉄骨が倒れたニュース。

他人事だと思っていたら
その台風で 実家の屋根瓦が風で飛ばされ、隣の家に 屋根瓦を破損した。

実家の屋根とお隣の屋根・・・これまた補修。

家が建って半世紀。
賞味期限を過ぎたのか
様々の問題が矢次早に起きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「古びゆく家」と「去りゆく家族」「老いゆく父」。

五人家族、私か最初に家を出た。
次いで弟が出ていき、
妹も結婚して出ていった。

母が亡くなり、

たったひとりになった父だけが家を守っている。

最後の時がきた
この文章を書いているとき、父の訃報が届いた。

ヘルパーが訪問すると
昨晩、比較的元気だった父が亡くなっていた。

最後の夜のこと
ケアマネージャーより昨晩の父の様子が伝えられたーーー。

昨夜は良く動かれて、トイレ、台所へも歩いて行き、
行くことのなくなった2階へも昇ろうとされたとの事です。

最後まで、成三さんらしく1人暮らしを全うされました。
良いお顔されていました。

皆んな成三さんの事が好きでした。
ありがとうございました。

豊島園

Posted on February 10, 2020 at 3:08 AM Comments comments (245)

私が幼い頃からいちばん通っていた遊園地 
豊島園が近い将来、
閉園してテーマパークになるというニュース。

山手線池袋駅から1本で行ける立地。
今後のインバウンドが目込めることから、
遊園地から
テーマパーク(ハリーポッター?)になるという。

豊島園。ここにはたくさんの思い出がある。
私の幼い頃を写した、いちばん古いアルバムには
豊島園で遊ぶ私が写っている。

学生の頃 中学?高校?男女のグループ交際・・・メリーゴーランド。
豊島園のメリーゴーランドには風格がある。

それは年月を刻んでも古びながらも今でも華やかだ。

少しドキドキのメリーゴーランド。

夏はプール。
夏の休日、どこも かしこも人でいっぱい。

スポーツタオル たった一枚の甲羅干しのスペースさえ
見つけられないほど。
人が押し寄せていたプールサイドは
今思えば海辺のアザラシの群れのように

隙間無く人々が日向ぼっこ。

記憶に残る1日
ーービキニ姿のハイレグの美女。手が届くほどに、すぐ隣。

仰向けにタオルを顔にのせて脚を精一杯伸ばして
夏の太陽を浴びていた。
目のやり場に困った。

見たくてもあまり近すぎて見られない。

まぶたに残っているのは膨らみの記憶。

十代半ば
思春期のど真ん中。
もうドキドキだった。

迷子
幼い長女がはじめて迷子
・・・・豊島園だった 。

迷子相談所。
私を見つけた時の長女の顔。

普段、我慢強く、
喜怒哀楽を我慢の長女が一瞬の大泣き
忘れられない記憶

豊島園の花火
はじめてのひとり暮らしは豊島園近くのオンボロアパートだった。
裏庭には畑が広がっていた。
畑ごしに打ち上げ花火が見えた。

シネコン
車で行けるいちばん近い映画館が豊島園だった。
晩年の母親を連れてよく出掛けた。

最後に一緒に見たのは ミスターインテクレデブル。
マンガ映画の進化を母に見せたくて、晩年の母を連れて行った。
新し物好きの母・・・・驚く映画だった。

いちばん最近に出かけたのは 桜のライトアップ
豊島園の真ん中を石神井川が流れている。
桜並木。
園内の桜もまた素晴しい。

いつの時代も忘れられぬ
思い出をつってくれた豊島園。

ニュースを見て走馬灯のように
心に写った記憶を書き留めておこう。


恵方巻

Posted on February 3, 2020 at 7:41 PM Comments comments (68)

恵方巻
昨日は恵方巻の日。
コンビニとスーバーを比べて
値段とボリュームでスーバーを選んだ。

私の家には恵方巻という言葉はなかった。

幸せの方角を向いて食べるということもなかった。

たから恵方巻という言葉が流行しだした時、
恵方巻って?

私の中では・・・・のり巻きの日、
母は 朝からのり巻きの準備。
台所の引き出しの中には

巻き簾が古いも新しいものいくつも入っいた。

具はかんびょうが多かった。

幼い私の仕事は の
りを弱火で煽ってかりっと焼き上げること。

せっかちに火に近すぎると焼け焦げて縮んしまう。
何度も火の上をあおりながら何枚ものりを焼いた。

今はのり巻きは買う時代になった。
大切な母と子の役割分担もなくなってしまった。

不愉快に爽快な風が・・・

Posted on January 24, 2020 at 8:21 AM Comments comments (242)

私の席は 飲み放題コーナーの隣だった。

ファミリーレストランのスタッフは満席のランチタイムで忙しく立ち働いている。

白髪で重厚さを漂わせた、がたいがしっかりした男が 珈琲マシンの前で声を出した。
ミルクが出ないぞ、マシンに向かって言っている。

遠いフロアで忙しく皿を下げているスタッフは知ってか知らずか返事をしない。

しばらく苦虫を堪えていた男、大声を上げた。!
・・・・返事くらいしろよ!声は店じゅうに響いた。

私は眼の前のオムライスの半熟に感動していたのだが、
一瞬に不愉快な感情がもたげてきた。



忙しく働くスタッフの気持ちも少し察して、私なりの対応なら。
スタッフに近づいて小声で・・・ミルクがでないよと言う?

私の前のブレザーを着込み、白髪の重厚そうな男は
自分の尊厳を台無しにしていることに気づかない。

たぶん気づけない人生を歩いて来たのだろう。


不愉快な気持ちで店から出た私は、信号のある交差点でハンドルを切る。

横断歩道を渡り出した女性を見て私は歩道の前で車を止める。

止まった私の車をみて 申し訳なさそうに頭もペコッと下げて小走りになって渡っていく女性。

私も小さく頭かうなずく。女性の気遣いへの感謝の気持。

私はそんな女性の行動をみて嬉しくなった。
きっと心の優しい人なんだと勝手に思う。

本来は 渡る側は当然の権利。
素知らぬ顔で自分のペースで渡り切ればよいことなのに、
申し訳なさそうに頭を下げて通り過ぎていく。

短いけれど心地良い時間だった。
その女性は輝いて見えた。

ファミリーレストランでの不愉快な気持ちに
風が吹いたと思った。

積年の消化不良が・・・ゴルフ澁野日向子

Posted on January 14, 2020 at 1:11 AM Comments comments (48)

去年の全英女子オープン。
渋野日向子が優勝した。

夜勤仕事が終わり仮眠を取りながら見ていた。
渋野は初日からトップ争いを演じ、
3日目には単独トップ立っていた。

私はゴルフをやめてからもう15年。
ゴルフへの興味はまったくなくしていた。

澁野日向子・・・プロテスト合格からたった1年。
二十歳の新人が世界の頂点で優勝争いをしている。
久しぶりにゴルフにチャンネルを合わせていた。

しかし・・・・・。
優勝が決まる最終日、4日目の3番ホール。

この日の試合がはじまって早々の3番ホール。
渋野はダブルボギーを叩き
後退する。
あ・・あ・・やっぱり

一瞬の戸惑いの姿を見た。

やはり無理か?
どんどんスコアを崩していく澁野日向子を
苦しみながら順位を下げていく姿を想像した。

辛くて見られない

明日の施設での朝食つくりも早い。
私はテレビを消し、眠ることにした・・・・。

数々の日本のトッププレーヤーが世界のメジャータイトルに挑戦してきた。
ことごとく破れ去っていく姿を
何人もずっと見てきた。
前日までトップ争いをしているけれど、
最終日はプレッシャーからか順位を大きく下げていく日本人プレーヤー。

やがてトップ争いから脱落すると放映画面からも消えていく。

もうがっかりしたくない。
20歳の渋野がダブルボギーで順位を下げたとき、
もう苦しむ姿を見たくなかった。


翌朝 テレビをつけると トップニュースは渋野日向子の優勝だった。
微笑みながら観衆とタッチして歩く渋野。
フェアウェイでキャディと駄菓子を食べて明るく笑う渋野。
少年のリクエストの答えて、試合中にもかかわらず、
手袋にサインして一緒に写真の収まる澁野。

その笑顔は何より輝いていた。

一方で・・・生放送で、
その瞬間に立ち合えなかった残念な気持ちを沈められない
悔しい自分がいた。

それから・・・
yutubeに投稿される渋野の優勝シーンや プロテスト合格から これまでの渋野の試合の軌跡何度も何度も繰り返し見ている。

全英オープンの動画が主に3本。
地上波・BS・・・・。
解説は 樋口久子・岡本綾子・服部みちこ・・・・。
それぞれの歴代の名プレーヤーの生解説。

最終18番の劇的な 優勝を決めた劇的なロングパットに。悲鳴が上がる。
嗚咽でしばらく声が出ない解説者も
・・・・それほど待ちに待った国際メジャー大会の優勝。
最後の5mのバーディパットは
日本のゴルフ史に永久に残るだろう。

その後の女子の日本のゴルフツアーのおお盛り上がり。

渋野のプレー見たさに。
私と同世代のお父さん方が孫を連れて観戦にきている。

私の積年のゴルフ観戦での消化不良を澁野日向子は解消してくれた。

私の中に久しぶりのスターが現れた?

この施設での最後の旅

Posted on January 12, 2020 at 9:30 PM Comments comments (53)



私のつくる・・・

ある日の朝食。


毎月 たくさんの"旅"に連れていった。
その多くが 彼らにとってはじめての体験だった。

私と彼らとの”送別ハイキング”は、富士五湖に決めた。


私がいちばん好きな場所を案内したい。

本栖湖と精進湖。
富士山が山と山のあいだで凛として立つ姿は
美しい・・・THE FUJIYAMA。

広大な樹海と3つの湖が織りなす
ハイキングコースーー三湖台からの絶景。

眼下に拡がる樹海の厚い絨毯は息を呑むほど。

ふじてんスキーリゾート
「スキー場を見たことない」というリクエストに答えて、
スキー場へ。
ゲレンデを滑るスキーヤー見ながらランチを食べて、
お金を出し合ってソリ。
ちょっぴりスキー気分。

最後のひととき、彼らの記憶に すばらしい富士山の映像と
雪と山と・・・私の最後にできる精一杯のことを・・・



奇抜な朝食・・利用者からクレームがついた・・・生クリームとクラッカー、ヨーグルト。 まるでデザートランチ・・・ごはんも食べたいと。

私の勤めるグループホーム。
施設の利用者とギ歌を一緒に唄うことを日課にしていた。

彼らの部屋に入りこんで インスタントコーヒーを飲みながら歌を唄う。

比較的重度の自閉症。
毎日5回、6回の精神安定剤を数種類服用している。
他の利用者に聞くと・・・この薬は強い薬だという。

彼はそんな状況で今の精神状態を保っている。
我慢できないことがあると彼は
自分を守るために叫び声をあげる。
何度も何度も 
目を充血せるほどの叫び声。

そんな彼と唄のコミュ二ケーション
歌は懐かしい記憶と繋がっている。

彼との思い出話のきっかけは歌からはじまった。

彼はここ数年のうちに
父親と母親を失った。

父親 母親が聞いていた曲が
彼の思い出の曲であり 歌いたい唄でもある。

坂本九 上を向いて歩こう。彼がはじめて一緒に唄ってくれた曲。
お父さんのカセットの唄だと言った。これが彼とのコミュニケーションのはじまりだった。


それを聞いて同感して、
言葉のキャッチボールを試みる。
オウム返しの単語だけのコミュニケーションに・・・
ふたつ みっつと言葉が繋がっていくことがある。
私に”意思"が伝わると 
”能面”だった彼の表情が変わりだした。

毎日、毎日、の積み重ね・・・・ 
歌う唄も増えると、口から出る言葉の数も増えていく。

部屋には布団がただひとつ敷いてある
殺風景な部屋
寝ているばかりの彼
自閉症でコミュニケーション乏しかった。

ある時から
私が出勤して来るの待って
リビングに降りてきて、彼は言う。
歌・・・唄うよ・・・ギターも・・・僕の部屋・・・


ふと彼からこぼれる断片的な言葉。
私は耳を澄まして聞いている。


彼の見えていなかった45年の人生のある出来事。

歌を介した会話から かいま見えることがある。

ある歌をきっかけに15歳当時の彼の話。

怒って、家中のものを壊した。
テレビもビデオも家中の全部のものを・・・・・・。

・・すごく悪いことをした。

そんなこともあったんだね・・・・


彼とのコミュニケーションの拡がりは
それを見ていた利用者の彼との関係さえも深めていく。


いつの間にか 
彼はリビングで他の利用者との
時間を好むようになった。

言葉のキャッチボールは難しいけれど
面白い会話を聞いていていると
笑みが浮かぶ。

利用者みんなが驚く・・・彼が笑っていると・・

そして、もうひとりの自閉症の40歳。

私の傍にきて、自閉症同士の”ヘンテコ”な会話
ができるようになった。
・・・これは驚きだった。




昨晩は
4曲 一緒に唄った。

昭和歌謡曲のスタンダードナンバー

唄っていて気がついたことがある。
どの曲にも 夕焼けの景色 が歌われている。

①君といつまでも
今宵も日がくれて時は去りゆくとも
ふたりの想いは 変らない いつまでも

②いい日旅立ち
いい日旅立ち 夕焼けを探しに
母の背中で聞いた 歌を道連れに

③瀬戸の花嫁
瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁に行くの

④あの素晴らしい愛をもう一度
あの時 ずっと夕焼けを追いかけていったふたりの心と心が今はもう通わない

自閉症と知的障害 施設の仲間たち
彼らにいきいきとした人生を
ちょっぴり刺激的な人生を



生まれた町・・・今はない町

Posted on December 9, 2019 at 10:33 PM Comments comments (2105)
東京都豊島区堀ノ内町
 ーー私の生まれた町。今は地名はなくなってしまった。
いつの間に上池袋町になっている。

東京の池袋駅から東武東上線に乗って一つ目の駅。
北池袋駅で降りるとその町はあった。
堀ノ内という町名は明治通りの「堀ノ内橋」。
そして、私の記憶の中の最初の神社ーーー「堀ノ内神社」に、
その地名が残っている。

私は板橋区へ引っ越すまで6年間をこの町で過ごした。

幼い頃の断片的な記憶はすべてこの町にある。
路地裏、行き止まり。
ビー玉遊び。坂を少し下った駄菓子屋さん。
母と夕方買い物に出掛けた商店街。
紙芝居が来た公園。正門のトンネルが特徴だった幼稚園。

どれも50年以上も前ーー。その多くは時の流れの中で変貌している。

踏切の警報、遊び場ーーー。
私の住まいは電車の踏切も近い。
車も通れない狭い踏切。駅もそばに見えていた。

線路の中も私の遊び場だった。
駅員さんから見つからないように架線に入って遊ぶ。
電車が近づくと警報が鳴り響く。
あわてて線路から脱出。
危険。ドキドキ。

その頃、電車の本数はかなり少なかった。
レールに耳をあてて遠く走る電車の音を聞いていた。

無計画な住宅街
川や谷、坂が入り組ん町「堀之内」。
地名に 地形が現されていると思う。

たぶん戦後まもなく人が移り住んだのだろう。
無計画に木造家屋が建ち並んでいる。
道は狭く 行き止まりも多い。

車が間違ってここに侵入しきたなら難儀である。
Uターンできる広さはどこにもない。
そんな風景の中で私は育った。

父のこと 母のこと
両親は、岩手県一ノ関市。
そこから少し山合いに入った村で生まれた。
里山を越えた隣村には世界遺産をかかえた、平泉がある。
周辺の村には親戚も多い。

両親の生まれた家は田んぼを隔てて直接望むことができるくらいに近い。
幼い頃、夏休み。田んぼの畦道を歩いて両方の家を往復していた。
両方のおばあちゃんに10円玉のおこずかい。
村の一軒しかない「商店」でアイスクリームを買うのが日課だった。

両親の東京に出るきっかけ
母親は22歳で東京へ出できた。
戦後まもなく東京に出た叔父さんが池袋に住んでいた。

母は田んぼでドジョウを捕まえては売り歩き、東京で暮らせる資金を貯めていた。
田んぼ仕事が嫌いだった。
体が冷えて辛かった。

そして、ある日、実家を飛び出すように東京に出て来たらしい。
最初についた仕事は当時盛んだったメリヤス業だった。
住まいは池袋の隣、「椎名町」のアパートだった。

父も 東京に憧れていた。
同じ頃、村の山で木挽きや石切に従事していた父も 東京に憧れていた。
仲間の誘いにふたつ返事、着の身着のまま東京に出て来たという。

定職につくまでは浅草の酉の市で有名な神社の境内で寝泊まりする事もあったらしい。
やくざに追われて逃げた話など80歳を越えたころ、ポロっと話すようになった。
どちらかというと常識人であった父にもハチャメチャな時代があった。

最初に就いた定職は木場の材木問屋だった。
木材の荷受けや出荷が主な仕事。
水に浮かぶ丸太を渡り歩いての肉体労働だった。
重い材木を扱うことは時としてかなり危険な仕事だった。
その分、お金の実入りも良かった。
まわりの仲間は「呑む打つ・・・」で派手に遊んでいたらしい。

俺はその仲間に加わらなかった。
だから、家がもてるようにもなったんだーーー。
父は今の東陽町や深川に近い、洲崎に住んでいた。

その後、布団の綿打ち機械メーカーに就職した。
私の記憶にある父の仕事。

幼い頃、夏休み、父の「綿打ち機械」の修理の出張に何度か連れていかれた。
海や山の見える田舎の村、工具を巧みに使いながら機械を修理していく父の姿をじっと見ていた。

「綿打ちの機械」はトゲトゲの歯が剥き出しで回っている。
綿を撹乱して空気を抱き込んでいくためだ。

連れていかれた出張先の奥さに頭に包帯を巻いた女性がいた。
機械が調子悪くなり、
機械に潜り込んだときに誤って回転歯に頭が触れてしまったと言っていた。

巻かれた包帯にまだ少し血が滲んで痛々しかったことを覚えている。
その晩は その家に泊まり美味しい料理を食べさせてもらった。
幼い頃の忘れられないひとつの風景である。

結婚
そんな両親は同じ村の出身者。会う機会も多かった。
父と母の姉は村の学校の同級生でもあった。
近しい間柄ということもあって、適齢期を迎え結婚ということになったらしい。

父の家
母の話では父の実家は村の土地持ちの資産家だった。

田舎に里帰りする度に母は村の功労者でもあった 父の祖父の話を私に言って聞かせた。

帰省して一ノ関駅から村へ向かうバス道り。途中で学校の前を通りすぎる。
すると、いつも母が話し出す。ーーー私は何度この話を聞いたことだろうか。

この学校を創るのに父の祖父が多額の資金援助をした話。

また、村の真ん中を流れる田んぼ用の用水路。
山にトンネルを堀り抜いて水をひく事業。
その音頭をとったのも父の祖父だったらしい。

これは父から聞いた話。
祖父には近くの温泉街に二号さんがいた。
子ども頃の父は祖父に頼まれて そこにお使いに行くのが嬉しかったと言う。
帰りにお土産がもらえたらから。
少し色のある話。
きれいな人だったのかも知れない。

しかし、祖父は、まもなく事業に失敗して多くの山を手放したという。

馬つながり
母の家では田んぼ仕事の他、馬を育てる仕事もしていた。「父の家の子馬を育てる」こともあった。
結婚は実家の「馬っ子」つながりだともよく言っていた。

私が高齢者施設で歌う唄・・・三橋美智也の「達者でなぁ」。
家族のように育てた馬が買われて旅立っていく様子を歌った唄。
母がよく唄っていた。

そんなわけで所帯を構えたふたり。
倹約しながら一生懸命家の購入資金を貯めた。
私の生まれた時には もう路地裏の狭い中古の一軒家を購入していた。

幼い頃の記憶はこの家の中からはじまる。

いちばん古い私の記憶
襖戸にぶら下げられたゆり籠。
ブランコのように揺れている。
私は籠の中に座って万面の笑みを浮かべている。
この私の姿は白黒写真が残っている。

写真を見ているうちに、あと付けで記憶をつくってしまったのかも知れないけれど・・・。
私の最初の記憶・・・。

狭い路地裏の家
家は狭い表道りからなお狭い路地に入った、奥まった場所にあった。私が何故か路地に感傷的になるのは幼い頃の風景があったからだろうと思う。

両親はようやく手に入れた住まいではあったけれど、
日陰で陽が入らないこと、
路地の入り口の家と仲良くなかったこと、

そんな事もあって、また新しい家への引っ越資金にふたりで奮闘することになる。

ほろ酔いで歩く町
今はない堀ノ内町は池袋駅の東口から歩いても十数分で通える距離。
数年前、ほろ酔い気分で歩いた。

狭い路地の奥に「私の家」は今も存在していた。

住宅密集地・・・火除け。
数える程しかなかった公園
今はいくつか新たに造られていた。

いちばん懐かしい遠い記憶の中の風景
堀ノ内神社へ行く、ひしめく住宅に囲まれた小さな境内。
七五三や年始参り。
母に手を引かれた幼い頃の私。

池袋駅に戻ると相変わらずの喧騒とネオン。しばしタイムスリップの時間だった。

草加を走つて・・・味わいのある古い街。

Posted on November 27, 2019 at 4:25 AM Comments comments (68)

私のジョギングは気のむく・・・・。

家を出ると 東西 南北
          あてなく走り出す。

しばらく走るうちに、

その方向で
いくつかの景色が頭に浮かんでくる。

途中途中で、走る道を変えながらのジョギング。
              ---同じコースを走ることはない。
                 そして、いつも小さな新しい発見がある。

路地の先に
民家の立ち並ぶ路地裏の道、
-----そんな道を見つけると、
向こう側の景色が無性に見たくなる。

私のジョギングは放浪の迷い道ーー。

草加市は古い街
私の住む草加には古い家屋が多く残っている。

何世代かの生活をささえた
            ・・・・人生を刻んだ風情のある古い家屋に出会うと思わず、
               足を停めてスマホのシャッターをきる。

埼玉県草加市。この地域に住むようになってもう30年。

市の真ん中を南北に貫く「東武スカイツリーライン」。銀座や浅草や上野に乗り換えなしで繋がっている。

     並行している道は日光街道。・・・・「奥の細道」。旅のはじまりの道でもある。

         千住で舟を降りた松尾芭蕉。草加宿を最初書きだしの地に選んだ。

   奥の細道  現代語訳
   元禄2年。
     奥羽への長い旅を思いついた。
       遠い異郷で白髪になってしまうかも知れない。
         見たことのない場所を訪れて、
           生きて帰えることができないかも知れない。

    はかない望みを託しながら、やっと草加という宿にたどり着いた。


    そんなわけで草加には江戸時代の古い面影がところどころ残っている。

走りながら見た草加の30年。
30年、眼に映る町並みや風景は少しづつ変わっていった。
その変化に、ある時は嬉しくなり、ある時は寂しくなったりする。

                最近は寂しくなることが多くなったーー。

古い家屋がなくなる。
屋根に重い瓦を載せられた平屋の古い家。

昭和初期の頃ならあたりまえに存在していた 
戦前の建物は頑丈な造りの民家。

 戦後は 急激な人口の増加にあわせて、
    あわてて造られた安普請の庶民の家とは何か違う
      
     古くなっても 濃茶にすすけた味わいのある古い民家・・・何か歴史の輝きがある。

この家の運命はーーー。
そんな民家が解体され消えていく様を
            残念な気持ちで いくつも眺めてきた。

ある古民家のまわりが更地になった。
周辺の土地は整地され、最後に残った古民家。

とうとう この古民家もなくなる時を待っているのか・・・・。

ポツンと最後の時を待っているのか・・・・。

ある時・・・この古民家に奇跡が起こった。
古い基礎から切り離された家屋は、移動台にのせられていた。

古民家は1軒分 隣に移動していた。

元の位置には新たに造られたコンクリートの頑丈な基礎が出来ていた。

数週間後
古民家は 元の位置に戻っていた。
新しい頑丈な基礎の上で、誇らしげに建っている。

狂乱のバブル時代
平成の不況
そして、今、・・・・。
古いものが、より見直される時代になってきた。

古き大切なものを守るには
古いものには
新しいものを造るよりずっとお金もかかる。



私は何を守れるのだろうか・・・・・・?
命を長らえた古民家を見ながら思う。





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